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紫の桃源郷はあるのーーあやめ考察①歌詞編ーー

「綺麗事?言ったっていいじゃん。それすら言わなくなってしまったらこの世界は駄目なんだよ」


これは、私が小学生の時に大好きな国語の先生が言った言葉である。素直な幼少期だからこそ、その言葉は何の疑念もなくストンと心に響いた。しかし、現在はどうだろうか。実現が難しかったり、自分と関わりが薄い(または目を背けてしまっている)理想について、綺麗事を言うことは「偽善」であると思ってはいないだろうか。または自分が「偽善者」のレッテルを貼られてしまうことを恐れてはいないだろうか。綺麗事という言葉そのものがマイナスイメージを持ってはいないだろうか。私は100%の自信を持ってこれらを否定することが出来ない。理想論が言葉という媒体で表現されたものーー綺麗事は、表現して初めて意味が付随されるのに、心に留めたまま思っているだけのものは0だ。綺麗事は表現されてやっとスタートラインに立つことが出来る。そこから進めるのか、それは自分次第であろう。



そして、今回の加藤さんはソロ曲「あやめ」で間違いなく理想郷へのスタートラインに立っている。(既に私には見えないくらい遠くに行っているような気がする)

「あやめは理想論かもしれないけど」
これはシゲ部で部長自らが口にした言葉である。多角的な愛が、ボーダーレスな世界が、様々な愛の形が容認される世界がーーそれが当たり前になった世界と言う方が理想かもしれないーーメロディーと歌詞の様々な部分で表現され、このたった数分の「あやめ」には加藤さんが思う理想郷が広がっている。自分の魅力を表現するだけでなく、ソロ曲という媒体を使って加藤さんが考える「理想郷」の意思表示をしているのである。

だからこそ、私は加藤さんが思い描く理想論が優しく、美しいことを嬉しく思った。誇らしかった。「ああ、私の好きな人の心には、確かに血が通った温かな綺麗事が存在するんだ」と、どこかで安心していたようにも思う。加藤さんの心には優しく美しい世界が広がっていて、思い描いている理想郷の姿を大衆に向けて加藤さん自身が発表したのである。(大きな影響力のあるアイドルという立場からこれを発表したということはとても大きな意味を持ち、かなりの勇気も必要である)それは自分が「理想を実現する(または出来るように努力する)側」であることを自他共に認めたために、相応しい行動が求められるという、ある種の責任が伴う。それでも、誰かの救いになれたら……と加藤さんが(誤解を恐れず言うと)綺麗事を表現してくれた。

この歌で世界が変わるわけでも、制度が見直されるわけでもない。しかし、言葉や音楽には力がある。あやめという愛の形が寄り添ってくれるだけで救われたり、言葉にできない心の葛藤・もやもやが加藤さんを通じて翻訳され想いが昇華され、ふと気持ちが楽になったりすることもあるだろう。「世界がこうだったら幸せだよね」ラジオでそう言った加藤さん。その声は本当にナチュラルで、サラリとしていて、普段思っていることが独り言のように、ほろりと口から零れたように聞こえた。でも、確かにあやめを必要とする人に届いて欲しいーーそんな優しい話し方だった。その言葉を聞けただけでも私は本当に嬉しかった。たとえ状況が変わらなくとも、誰かの心にそっと染み込んで楽にすることが出来るーーそれが綺麗事の役割の1つではないだろうか。どんなに暗くても、たった一言で僅かにでも希望が見える可能性があるのなら、綺麗事を言って何が悪い。綺麗事を言わない方が臆病だ、と先生は伝えていたように思うが、それは綺麗事を言うためには、優しさと勇気、両方の強さが必要であるから。それを見せてくれた加藤さんには至上の信頼を置くしかない。


そして、私自身も加藤さんの理想論に心を軽くしてもらったのである。人見知りで馴染むことが苦手な私は、これまでに見えない境界線を感じたことが幾度かある。相容れないような、寄りつけないような、「あなたは違うから」というベールのような壁を感じ、また自分自身でも壁を築いていた。(それは私の過剰な自意識かもしれないが)


しかし、あやめは違いも痛みも許容してくれる。様々な境界線を水彩絵の具のようにぼかし、心に響く。「境界線は心まで隔てないよ」と受け入れてくれる。

前置きが長くなったが、完全に個人的な解釈で(特に心に響いた)歌詞の考察をしようと思う。


この曲に出てくるのは「僕」と「あなた」であり、私の意見として、
僕→理想の愛の世界を求める
あなた→この世界の何らかに虐げられている
という立場であるのだと思うので、その前提で考察をしていく。


ああ あなたの歌声を雨が流してしまっても


雨は何らかの障害であり、その後は私の中で2つ解釈できた。
①「あなた」の歌声=妨げられていることに対する訴え がかき消されてしまい届かない
②「あなたの歌声」という「僕」から見たら美しいものは、雨音で隠され濡れてしまう→どんなに美しいものだとしても、世間から虐げられていると(色眼鏡や偏見で見られると)その美しさは霞んで本質は見えなくなる

決して空想 夢想の彼方
今だけはキスしてよ


これは「決して〜(ない)」だと思う。
僕が思い描く「空想」「夢想」=理想の世界(愛をもってして多様性が受け入れられる世界) は決して遥か彼方のものでは無いよね?だから、いつか叶うまで今だけは2人傍にいて愛を確かめていいかな?と「僕」が「あなた」に語りかけるような感じ。そして、今「だけ」と言うのだから、「僕」は今の状況が変化することを知っているのか、願っているのか。

世界は光の地図を求める
だから僕は生きていく

光の地図=(加藤さんが思う)理想郷への地図。つまり、多様性や愛が許容される(理想論的に)美しい世界への道しるべ。ここで注目すべきは「だから」。「だから」は理由を表すので、世界がそうした理想を求めているなら僕はそれが実現するまで生きていくよ、理想が現実になるまで僕には闘って、対峙する使命があるんだーーと言っているのだ。僕が生きる理由=この世界を美しくすること、だなんて、どれだけのものを心に背負っているのだろうか。加藤さんの頭の中には一体どれだけの感情が詰め込まれているのだろうか。「書きたいことが多すぎて用紙に収められないから国語は苦手だった」という加藤さん。きっと人より何倍も強い感受性を持っていて些細な感情にも目を向けることが出来るのだろう。しかし、そんなにも多くの感情に触れられる心があるのが嬉しい反面、潰されてしまわないか不安になってしまうのも本音である。

紙で切れた指先のように
伝わらない痛みを忘れないように

紙で指を切ると、傷口は綺麗で他人からはほぼ見えない。しかし、傷ついた本人はヒリヒリとかなり痛い。他人からは自分の痛みなんて、更には傷ついていることさえも分からないことの方が多いのだ。だからこそ、他人のことを完全に理解できなくても思い遣る気持ちを持って寄り添うことが大切なんだ。痛み・苦しみは1人1人のものさしによって異なるのだから伝わらない、けれどせめて誰かが傷ついているかもしれないことを忘れてはならない。(この例えが美しくドンピシャすぎて加藤さんを本当に尊敬する)


いずれもあやめず青空

多様性に紋切り型の正解はなくて、何も排除していいものは無い。どんなに違っていても青空から見てしまえば皆同じだ。境界線のない青空のように、全てを飲み込んでくれよ、という心からの語りかけである。さりげなく「あやめ」を歌詞に織り込む言葉のセンスが美しすぎる。
そして青空の後に"Right?"って聞こえるのだが、それは「そうだろ?」と問いかけている。その相手は私達か。それとも青空か。

空から落ちる蜘蛛の糸
んなもんいらねぇ 飛んでやらぁ
雨の弓を渡れ超えろ抱きしめろ


蜘蛛の糸(芥川)では、地獄から脱却するために垂らされた蜘蛛の糸を登った主人公。それに続いて他の人達が登ってくるのだが、それを妨げる主人公の心無い行為に、結局蜘蛛の糸は切れてしまう。
この歌詞は救いが要らない、ということではなく自らで状況を打破しようとする強さ。
雨の弓=rain+bow で虹。多様性の象徴である虹を抱きしめるーー「僕」は多様性を受け入れてくれるレール上にいるだけではなく、更に先へ行かなくてはならない。虹を抱きしめる、つまり「僕」自身も多様性を広く許容する心を持っていたいということだ。抱きしめ「ろ」という強めの口調が「僕」の心の強さ(または弱いけど強くあろうとしている)を表しておいる。誰かの支えになるには強さが必要で、その強さを「僕」に投影したのだ。(ここでいう強さは優しさも含む)
小さな文字表記(いらねえ→いらねぇ やらあ→やらぁ)については、ピングレでもあったな……加藤さんらしいなあ……(『ぐぅぁ ぐぁ』など)ちょっとキュンとした。

世界は光の地図を求める
そして僕は生きていく


「だから」→「そして」と変わった歌詞。私の勝手なニュアンスだが、「そして」を使うことによって「僕」が世界から少し乖離しようとする印象を受けた。世界が求めるものは「僕」の理想とズレがあったのだろうか。世界が何と言おうが構わない、僕は僕の思い描く理想を求めて生きていくんだ、という自分を奮い立たせているような歌詞。なぜこんなにも理想を追求するのか?それは「あなた」と美しい愛を塗り描いていくため。「あなた」が虐げられ不自由にならない世界を作るのため。愛する者が見ている世界が少しでも美しくあるようにと「僕」は願っているのだろう。

cause i need u cause i love you

シゲ部で言っていたが、初めはneedとloveが逆で、順番を間違えたために偶然生まれたそうな。しかし大正解だと思う。need you→love you の母音が「i u→a u」となることで後半の方がよく響き、発音しやすい韻になっている。後半ほど盛り上げることは鉄則なので、心にぐっと訴えかけてくる。これが当初の通り逆だったなら、ここまでこみ上げてくるものはなかっただろうと思う。

never give up, beautiful world
makin´ a good thing better

私的にこの歌詞が一番好き。僕は決して美しい世界ーー僕が思い描く、多様性や愛が広く自由に存在している理想の美しい世界ーーの実現を決して諦めない。いつかこの世界が理想に近づく日がきっと来るから。

それはまるで雲から一筋の光が射し込むかのよう。望みを失ってはいけない、きっと素敵なことが待っているはずだから、あなたの想いはきっと誰かに届くはずだから……そう語りかけ、寄り添い、優しく手を差し伸べてくれる。こんなにも静かに優しくいられるのだろうか。たった2文に加藤さんの温かさ、優しさが凝縮されている。沈みこんでしまった心をそっと掬いあげてくれる。加藤さんの「誰かを救いたい」という気持ちは、十分すぎるほど届いている。

世界は心の奥底にある
だから僕は生きていく
虹を歩いてく

1回目、2回目を経て、「僕」は気づいた。理想郷は世界から求められた(現代社会で言うと推進・提唱された)姿ではなく、自分自身の心の奥底で思い描いた姿で存在しているのだと。「あなた」を愛することが出来る世界は僕の中にずっと描いてきたじゃないか。僕は僕の理想を実現するためにこれからも生きていく。
そして、「あなた」の歌声を流していた雨、また雨の弓は止んだのだろうか。差し込んだ希望の光は雨を虹に変え、理想郷への架け橋となった。その先にはきっと光を受けて、静かに強く愛の象徴ーーあやめが咲き誇っていることだろう。僕とあなたはあやめが咲く桃源郷へと、手を繋いで歩んでいくのだ。



あやめは本当に強く、美しく、優しい歌だ。
なぜこんなにも優しい言葉が出てくるのかな。たとえ理想論だ、綺麗事だ、と言われようと、加藤さんの言葉には確かな温度がある。逆に言葉だけで誰かを救えるなんて、こんな素敵なことはないじゃないか。加藤さんが今までに見てきたものや経験したこと、様々な作品から培った感受性が全て今の優しさに注がれているような気がしてならない。あからさまに表面化する優しさというより、頭で考え、多くの視点から俯瞰することで心の動きに敏感に反応する様な優しさ。心の奥深くにたっぷりと湛えているような優しさ。


加藤さんを好きになって良かったと、何度も何度も思う。そして、この曲「あやめ」に出逢えて本当によかった。